山城国諸家文書目録(その2)
型番 619
定価 2,750円(税250円)
販売価格 2,750円(税250円)
購入数

山城国諸家文書目録(その2)
史料館所蔵史料目録 第68集
B5判 253頁
定価(本体2500円+税)

山城国京都飛鳥井雅豊日記(解題・目次)
山城国京都駕輿丁文書(解題・目次)
山城国京都三条西家文書(解題・目次)
山城国京都袖岡玄蕃助家記(解題・目次)
山城国京都徳大寺家文書(解題・目次)
山城国京都二条家文書(解題・目次)
山城国京都堀之上町万屋小堀家文書(解題・目次)
「山城国京都飛鳥井雅豊日記」(公家)
(歴史)
飛鳥井家は、藤原氏難波頼経の子雅経を祖とする堂上羽林家であり、歌・鞠の師範の家として知られる。鎌倉・室町時代、幕府の信任を得て、中央歌壇において冷泉家とともに二大勢力をなした。近世には江戸幕府の庇護のもと中央文化のサークルにおいて指導的役割を果たした。飛鳥井雅豊は1664(寛文4)年に誕生、左衛門督、中納言となり、官位は日記の記述から従三位・正三位・参議と昇進したことが明らかである。また、1711(宝永8)年の日次では「前中納言藤原雅豊」と見える。1712(正徳2)年に没した。

「山城国京都駕輿丁文書」(地下官人)
(歴史)
駕輿丁は、天皇の行幸の際に輿を担ぐもの達であり、古代には左右近衛、左右兵衛の四府に属する下級の職員であったが、次第に職務の傍ら商工業や運送業に従事するようになり、鎌倉時代には四府駕輿丁座が設けられた。室町には駕輿丁の課役免除特権を得るために、諸商人などが加わり、本座のほかに猪熊座・嵯峨座・朱雀座などが設けられた。また、駕輿丁は四府の管轄のもとをはなれ、官務壬生家や外記中原家の所属となり、足部に統括された。足部は壬生家などに補任料の上納によって抱えられていた。豊臣秀吉の楽座令によって専売権などの特権は否定された。しかし、近世にも駕輿丁奉仕の組織は残り、商人達が加入した。また、足部を通じた壬生家の支配なども存続する。由緒に関する記述では伝統的な組織としての側面が強調されるため、同史料の検討には、駕輿丁に関する歴史的な理解が必要である。なお、駕輿丁文書の発生管理母体については充分に確認できなかったが、文書作成者名には右近衛足部大石左馬介、右近府野口、左近衛府森田、右近府沙汰人小野民部といった複数の名前が見られる。出所を異にするコレクション史料と見た方がよかろう。

「山城国京都三条西家文書」(公家)
(歴史)
三条西家は閑院流藤原氏三条家の庶流正親町三条家の分家、公卿(大臣家)であり、西三条とも称した。同家は歌道を家職とする家であり、近世には家禄500石を領した。4代実隆(1455−1537)は和歌の道に長じ、宗祇から古今伝授を受け、古典籍・有職故実に関する多くの著作がある。その子公条、孫実枝もその道に長じ、歌道の家として確立を遂げることになった。

また、近世初期の当主実条は、27年間にわたって武家伝奏を勤め、幕府の朝廷統制策に一定の役割をはたした。同家伝来の文書は、家職や役職に関わるものであり、ことに典籍類が多い。

「山城国京都袖岡玄蕃助家記」(地下官人)
(歴史)
袖岡玄蕃助は、朝廷蔵人方に属する官人の一人で蔵人所衆を勤めた。『地下家伝』によれば、1799(寛政11)年生まれ、袖岡文景と称し、1808(文化5)年采女佑、1816(文化13)年に玄蕃助となり、1855(安政2)年に没した。蔵人所衆として蔵人所の出納平田家に属した。同様に平田家に属した蔵人方は60家程あった。袖岡家記では平田家は専ら出納として記される。蔵人方の職務は、平田の指揮のもと公事・儀式に参勤し、朝儀の遂行の一端を担うことにあった。出納平田家を含む家禄は254石余であり、領地そのものは極めて零細である。

「山城国京都徳大寺家文書」(公家)
(歴史)
徳大寺家は藤原北家閑院流の堂上公家であり、大臣・大将から太政大臣へ進み得る家である。家名は初代実能(1095−1157)が京都葛野郡衣笠に徳大寺を建立したことによる。笛を家業としたが、和歌に秀でたものもいる。近世には家領として紀伊郡東九条村、葛野郡下山田村、同郡下津林村、愛宕郡浄土寺村で410石を与えられた。宝暦事件の際の当主公城は事件に関わり、落飾を命ぜられた。近世後期の実堅(1790−1858)は武家伝奏を勤めた。次の当主公純は朝廷政治において中心的な役割を果たし、安政の大獄の際は朝廷における謀反の代表者と見なされ、和宮の降嫁でも幕府の批判を受けた。王政復古に際しては参朝停止となる。公純の子実則は1862(文久2)年に国事御用掛となる。尊王攘夷の立場を取り、維新政府のもとで参与、儀定職、内国事務総督となる。1871(明治4)年宮内省に出仕、侍従長となる。一時同職が廃職となるが、1891(明治24)年には内大臣を兼ね、1912(明治45)年明治天皇が死去するまで侍従長を勤めた。

「山城国京都二条家文書」(公家)
(歴史)
二条家は、藤原北家の嫡流で、五摂家の一つである。当館所蔵(国文学研究資料館史料館)の二条家文書には近世のものも含まれるが、現在仮整理が終了しているものは、すべて明治期のものである。当該期の当主は基弘であり、1859(安政6)年に生まれ、1928(昭和3)年に没している。なお、当時の生活は東京中心であったが、京都の西京今出川寺町入常磐井殿町にも住いを有した。

「山城国京都堀之上町万屋小堀家文書」(商家)
(歴史)
小堀家の祖は彦根藩士の子と伝えられ、幼少の頃に京都の両替商に奉公にあがり、満28歳の時、1762(宝暦12)年、京都六角高倉にて両替商を創業したという(村上勝彦「小堀家文書の追跡調査」『日本歴史』494号、1989年)。また、当館所蔵文書では、初代甚兵衛が1772(安永元)年、36歳の時に店を開き、1800(寛政12)年に隠居し、1802(享和2)年に69歳をもって亡くなったという(仮番号44)。その後、二代目甚兵衛は1826(文政9)年に59歳で亡くなり、三代目が30歳で相続している。同家ではこの間も順調に経営を拡大し、京都・江戸間の両替、大名貸し、近江商人などへの貸付けなどを行った。屋号は万屋を称した。また、3代目の時より神仏の加護を求め、日蓮宗への帰依を増して行くようである。(以上歴史部は「史料館収蔵史料総覧」より転載)

なお、当館(国文学研究資料館史料館)が所蔵する山城国を出所地域とする史料群は、すでに『史料館所蔵史料目録』第31集に「山城国京都久世文書」「山城国京都平松家文書」の目録が刊行され、「同」第63集では「山城国諸家文書目録(その一)」として「山城国葛野郡嵯峨天龍寺塔頭臨川寺文書」「山城国京都三條家文書」「山城国京都清水谷家文書」「山城国乙訓郡長野新田村三宅家文書」「山城国乙訓郡菱川村文書」の目録を刊行している。
この商品について問合わせるこの商品を友達に教える買い物を続ける